喋るのは苦手だけど、誰かに何かを伝える仕事がしたいと思った。現在にたどりつくまでの話。
最近、「なぜ今の仕事をしているの?」「制作したり伝える仕事をしたいと思った、するようになったきっかけが知りたい」などと、質問していただく機会が多くありました。
記憶を呼び起こしながらお話をしている途中に、そういえばこれはこうだったよな…とまったく別の記憶が呼び起こされたりして、その根をさらに掘っていくのは面白い作業だなと感じます。
サイトを訪問いただいて興味関心を持ってくださった方にもシェアできたらと思い、ここにまとめることにしました。少し長いですが、背景として知っていただけると嬉しいです。
これまでの略歴と今の仕事にたどりつくまで
今にいたるまでに私がたどってきた道はこんな感じです。
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・1994 東京出身。生まれて数ヶ月で千葉・船橋に転居
・2011 都内私立高校に進学
・2017 明治大学文学部を卒業。総合人材サービス企業に入社。
・2019 教育系出版社に転職
・2021 福島への転居を機に会社を退職し、フリーランスに転向
・2022 カフェのオーナーに即日弟子入りしコーヒー修行をスタート
・2023 第1子を出産。出産1ヶ月前にブログ「Re:log」を立ち上げ運営スタート
・2025 福島生活にピリオドを打ち、ふたたび東京を拠点に。sukuu.としての活動をスタート
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今思い返してみると、2021年は人生の分岐点でした。
フリーランスにならずに会社員として勤務を続けていたら、今ごろどんな人生になっていたのかなあなどと思うときがあります。両方を経験したわけではないので、比べようもないのですが。
2025年8月現在は、複数企業のデザイン・執筆などの制作支援を継続しつつ、かたわらでsukuu.として個人での活動、個人ブログ「Re:log」での発信をしています。
「だれかの伝えたいこと、伝えるべきことを視覚的に伝えるお手伝いをする」仕事をしているのですが、「何かを伝える仕事がしたい」とぼんやりと思い始めたのは、大学生のころ。
ゼミの授業中に教授がかけてくれたひとことがきっかけでした。
それまでは、「自分の思いや考えを人に伝えたい」という思いはあったものの、なんせ人と喋ること、人前で喋ることが本当に苦手。
自分が誰かに何かを伝える役割を担うことなどは想像していませんでした。
下記のリンクから気になるトピックを選べます💡
・新卒で休職を経て転職。今の仕事にたどりつくまで
・幼少期から、喋ることや自己表現が苦手だったけれど「伝えたい」という思いはあった
・「伝える役割を担う仕事がしたい」と思ったきっかけは大学のゼミの教授がかけてくれた言葉
新卒で休職を経て転職。今の仕事にたどりつくまで
私が大学を卒業して、新卒で入社した会社ではじめて任された仕事は、人材業界での法人営業でした。はじめての新卒での就職や配属は希望とは違った…という話もちらほら聞きますが、私ももれなくそうでした。
当時、私のなかで営業職のイメージは「うまく口説く人」でした。
喋ることに関して昔から苦手な自覚があった私は配属発表と同時に強い抵抗を覚え、視界が暗くなったのを覚えています。
その企業は「足でかせぐスタイル」を推奨しており、毎日のアポなしの飛び込み営業に加え、部署内では「先輩のメッセージにはすぐに返信しなければいけない」「昼休み後業務に戻る時は10分前には席に着いていないといけない」などと指導され、どこか体育会系の文化を感じました。
あう人にはあう文化かもしれません。でも私自身は、就職するまで抱いていた「働く」イメージと大幅に異なると感じていました。
ここで仕事を続けるにはこの文化を受け入れ馴染まないといけない…と思うほどに心が追いつかなくなり、上司との面談で涙が止まらなくなることも。
ついには出勤日の朝に布団から出られなくなるなど、完全に心身の調子を崩します。部署への配属から4ヶ月ほどで休職することに。
休職を経験したことで、よかったこともありました。
「こういうふうに働くのが自分にフィットするかもしれない」というイメージが自分のなかで見えてきたのです。何らかのスキルを身につけ、それを生かして、いずれは自分が働きたい時間に好きな場所で、一緒に働きたいひとと仕事がしたいと、ぼんやりと思うようになりました。
休職をはさんでからは、また別の部署で働くことになりました。
いずれはフリーランスになって…出社せずに猫を膝にのせながら仕事して…なんてことを最近思っていて、と一緒に外回りした後輩に話したら、退職時に、いずれお家で働けるようにともふもふのフットカバーをプレゼントしてくれた記憶があります。やさしい。
上司に、いずれこういう働き方がしたくてそのために転職したいんです、と退職を切り出した時も、いいね、応援してるよと言ってもらった記憶が。まわりで働いていた方は、いい方ばかりでした。
結局、休職から復職後1年弱で、転職のために退職を決めました。
「伝える役割を担う」仕事ができる環境はないかと見つけるために転職活動をし、数ヶ月で教育系出版社とのご縁があり入社。
1年半ほど勤めたところで、当時一緒に暮らしていたパートナー(現・夫)から地方に転勤が決まりました。
前々からフリーランスとして働いてみたい!と思っていたこともあり、地方転居を理由に会社をやめてしまおうと退職。
その後は転居、いきおいで開業届を提出。
福島での4年間の紆余曲折は、こちらの記事でインタビューいただきました!ぜひ覗いてみてください。
幼少期から、喋ることや自己表現が苦手だったけれど「伝えたい」という思いはあった
昔から喋ること、表立って自己を表現することへの苦手意識がありました。
なにか具体的なエピソードがあってのことかもしれないのですが、きっかけはあまり鮮明に覚えていません。
幼稚園から高校を卒業するまで、本当に親しい1〜2人の子とは喋ることができたのですが、クラスではほとんど喋らずに見かけ上ひっそりと生きてきたような気がします。
時々何か喋りたいことがあって人前で口を開けば「あっ!りさちゃんが喋った!」などと過剰反応されてしまうものだから、それが嫌で余計に喋りたくなくなっていき…。
でも、うまく喋れなくても、「なにかを伝えたい」「(喋る以外で)自分の思いを表現したい」という思いは人並みにありました。
当時同居していた祖母の部屋の机で気ままに絵を描いたり、小学校の卒業アルバムのクラスページの誌面作りをかって出たり。
学校で友人と一緒に4コマ漫画のようなものをおふざけで描いていて、それが学級だよりに載ったりだとか、そんなこともありました。
大勢の前で前で話さなくていいし(大勢にむかって放送されるのですが)、お昼時に放送室のマイクに向かって決められたスクリプトを読めばよかったので、小学6年生のとき、気まぐれで放送委員もやりました。
そんなこんなで高校を卒業したのですが、大学に入学したとき、これまでと比べて一気に人間関係や世界が広がったからか、人ともっと関わってみたい、話をしてみたい、という思いが突如むくむくと湧き上がりました。
大学に入学して、高校までの知り合いがほんの数人しかいなかったのを機に、一人称を「うち」から「私」に変えることでキャラの一新を試み、同じクラスやサークルで出会う子たちがどのように会話しているかとか、どんな時にどんな言葉で返しているかなどをとにかく観察しました。
まわりの友人が生まれてからそれまで積み重ねてきたコミュニケーションというものを、私は18歳頃から徐々に吸収し、実際に使うことで体得していきました。
変かもしれませんが、だれかと会話するときにいい感じのことばが思い浮かばないときは、記憶のなかの誰かの会話から吸収したフレーズをひっぱりだすかたちで喋ることも多々ありました。
私が徐々に人や社会との関わり、接点を増やすことができたのは、普段ノリがよくなくても、するどいツッコミができなくても、飲み会で大人数の会話についていけずにしばらくフリーズしていても、飲み会にまれにしか参加しなくても、
まわりの友人があたたかく、そのままの私を個性として受け入け入れてくれたのが大きかったのだと思います。
「伝える役割を担う仕事がしたい」と思ったきっかけは大学のゼミの教授がかけてくれた言葉だった
そんなわけで、私にとって「大勢の前で話す」ということは「地上100mの滝から滝壺に向かってダイブする」くらいのインパクトがありましたし、今でも同じです。
新卒で入った会社の研修で、大勢の同期の前でグループワークの発表をする機会がありました。私が喋る番になったとき、とたんに頭が真っ白になり、10秒くらいその場で直立してフリーズしてしまったことがありました。
幸いスーツのポケットにメモのカンペをしまっていたので、それを読むことで場をしのいだのですが。自分が喋る必要のあるWeb会議でも、いつも直前にはそわそわしています。
それでも「伝える仕事がしたい」という思いをぼんやりと抱き続けてきたのですが、そう思うようになったのは、大学時代のゼミの教授のひとことがきっかけでした。
誰かに言われて本当に嬉しかったとか、予想外だった、驚きだった言葉は、ずっとその人の記憶に残ると聞いたことがあります。その言葉の一つが、大学のゼミでお世話になった教授が授業中にかけてくれたひとことなのかもれません。
私は歴史学を専攻していて、その日の授業の内容は、興味がある分野についてまとめてきたレポートをゼミのメンバーの前で発表し、最後に教授がコメントしたり、ディスカッションしたりするというものだったと思います。
その日の授業では、私が発表をすることになっていました。教室をコの字型に囲む10人程度のゼミのメンバーの前に座り口頭でプレゼンをします。発表時間は正確には覚えていないのですが、軽く20〜30分を越えるものでした。
人前で話すことに慣れている方にとっては、20〜30分も人前で話し続けるというのは何てことないことかもしれませが、私にとってはほとんど初めてのことで、一大事でした。
途中で頭が真っ白になって言葉が出てこなくなったらどうしようかと思いながらも、幼稚園のお遊戯の時に先生が言っていた「観客はみんなピーマンか人参だと思えばいい」という言葉を思い出し(正確には違うかもしれないけれど、確かそんな感じだった気がする)、ほとんどレポート用紙から目を上げずに、でもどうしたらこの内容が、全く知らない人に対してわかりやすく伝わるのかを考えながら、淡々と話した記憶があります。
無事に発表が終わったあと、教授からの辛口コメントを覚悟していたところ、教授の第一声は予想外の言葉でした。
「篠塚さんは、授業中に突然発言を求めるとしどろもどろになるけれど、時間をかけてまとめるとすごくわかりやすいね」
今思い返すと、この言葉は私の「得意なこと」「得意ではないこと」の本質を客観的に突いてくれるものだったと思います。
そもそも喋るのが苦手で、頭のなかにあることを即座にまとめて話すのは得意ではありません。口が上手いタイプではないです。
でも、どうしたら伝わるか、理解してもらえるか、聞き手のことをことを考えながら紙やPC上にじっくりとまとめなおしたり、考えたりするのは好きで、苦ではありませんでした。
小さいころから「自分の考えや思いを伝えたい」という思いはありましたが、喋ることが本当に苦手な自分が、「誰かに何かを伝える」ことはできると想像していませんでした。
でも教授のひとことがきっかけで、「私にも誰かに何かを「伝える」ということができるのかもしれない」と気づきをえたのです。
当時は、デザインがしたい、制作がしたいなどという、具体的な仕事に対するイメージはありませんでした。
ただ、この出来事があってから、ほんとうにぼんやりと、もし仕事をするとしたら「なにかを伝える役割を担いたい」という思いが少しずつ芽生えた実感がありました。
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ここまでお読みいただきありがとうございました。